橋爪大三郎コレクションI 身体論 勁草書房
立ち続けに橋爪の本を読んでみた。これもまたむずかしい。理屈だけでゴリゴリ押していて、具体的な話が何もないので、けっこう読むのにくたびれた。私の頭が悪いからであるが。
この本は、『言語派社会学の原理』よりも古いので、その点に注意。
1 ダブル・リアリティ
われわれの経験する社会的現実は、ダブル・リアリティ(二重の現実性)である。それは、現象学が記述する社会の様相と、唯物論が前提する社会の様相があまりに食い違っていて、なおかる相手を排斥できないということだという。そこには亀裂と抗争があるが、それは「真理」をめぐる対立ではなく、社会空間をめぐる文体の差異だと考えることにするという。哲学的言説のこうした分立は、おおkな解体の帰結である。それは、唯一神、創造神が死んだためである。異なる主観同士をつきあわせうる視界は存在しない。
ここで、話は変わって、身体の話になる。社会空間を充たしているのは、ひとびとの身体である。ここで、身体とは(事象の連鎖の)無際限な求心性の過程をともなう、事象の複合である。身体と身体の相互関係をつくるのは、言語である。<言語>は、身体と身体とがとり結ぶ相互関係の根源である。
そして、もう一度、主観と客観の問題に戻る。世界は客観の総体として了解されるが、それはある主観が直面する世界にすぎない。客観の総体としての世界は、わたしの身体とよぶのが正しい。14。身体と身体は互いを眺望できない並行関係にある。身体の秩序を考えるとき、記号や諸々の社会形式に注目すべきである。
そこで、最後に記号の話になる。記号の流通性を、記号の流通性以前の確実な根拠にさかのぼって基礎づけようとする試みには、無理がつきまとう。これまでの文体--現象学にせよ、唯物論にせよ--は、ある特定の実証観に立って、記号・社会形式の導出をはかった。しかし、それはうまくいかない。記号・社会形式はだれも見ていないときでさえも、そこ(社会空間のなか)にある。記号・社会形式は、身体と身体を関係づける基本的な作用素なのだ。つまり、これまで、社会的現実を記述する文体には、現象学的文体/唯物論的文体のふたつしかなく、どちらも記号や社会形式をぎこちなくしか論じられなかった。もし、記号・社会形式が導出できないのであれば、発想を転換し、記号・社会形式を第一公理とすればよい。これが、<言語>派社会学の出発点である。
なかなか、興味深い立論である。鋭さを感じるし、また納得させられる点もある。私の疑問は、認識論と社会理論は同じものか、ということである。認識としての主観、客観、関身体性は納得できたとしよう。しかし、それは認識の問題である。社会が認識と同じであるという説明は何もない。

2 記号空間=社会
以下、命題の紹介。
社会は、局所性と全域性とをそなえた、ひとつの場である。
社会の局所場として、身体がある。
身体は、無限求心性をそなえる事態である。
事態の全体連関が、宇宙をなす。
記号能力は、身体を分節/統合へともたらす。
身体は、自らの分節/統合の秩序にもとづいて、自らを世界へとつくりなす。
身体は、事象の全体連関のなかで、事象の地平線を張る。
事象の地平線が身体の求心性にとらえられるときに、身体像が描かれる。
了解は、自己身体像、他者身体像、事物像からなる現実的な拡がり--世界--を構成する。
自己性を軸に分節/統合をとげた身体は、自己身体像のなかに身体図式を、自他身体像のあいだに人称構造を、生ずる。
社会は、間身体的な作用諸力によって張られ、身体の全域からなるような、記号空間である。
3 間身体的作用力論
間身体的作用力は、事象の連鎖のうえにたつ。
間身体的作用力の種別は、1自然力、2<性>、3<言語>、4権力、の4つである。
<性>の作用力は、身体が身体像として了解される感性的な仕方を通じてはたらく。
言語は、身体の規範的律動のうえにたち、"意味"を指示するようにはたらく作用力である。
規範的律動においてとらえられた身体の活動が、行為である。
行為に発する遠心的な過程が、表現である。
表現が定立する形式性を、<言語>的定在という。
<言語>は、身体の規範的な律動のうえにたつ作用力である。
権力は、了解の集合性を経由して、身体にはたらく。
社会は、間身体的な作用諸力によって張られ、身体の全域からなるような、記号空間である。
4 歴史:局所と全域における
歴史に関して素朴に抱かれるイメージは、'歴史的な事実の一系列'とでも名付ければよいような内容である。しかし、これはある歴史的な営為の産物にほかならない。歴史的な事実がひとつの秩序ある系列をなすことができるためには、われわれがそれを言説のなかに置き換えるという操作が不可避な前提になっている。これら歴史的な言明は、あくまでも現在に帰属するものであり、現在における歴史学的な営為以外のものではない。素朴に歴史的な事実の一系列と思われていた歴史なるものの概念は二層へと変貌をとげる。ひとつは、歴史(学)的な言説そのもの、もうひとつは、そのような歴史(学)的な言説によって言及される、その対象である限りでの、歴史的な事実そのもの。。この構造を通して明らかなのは、ある事実が歴史的であるためには、それがある歴史(学)的な言説によって言及され、その言及のなかで対象として構成され、その存在をえるものでなければならないということである。209
歴史(学)的な言説は、ところが、それ自身歴史を述定するだけの性能をもたない。ここから、3つの論点が抽出される。1)歴史の全域問題、2)歴史幻想の問題、3)歴史-文体問題、である。
ひとが歴史的な現実を生きるということは、ひとが、刻々の歴史的現在に分断され、その差異づけられた場所でたえる、ということである。ある身体の現在は、その歴史的な規定によって他の身体の現在とは区別されている。しかし、身体と身体の上には同時刻圏が仮構される(ここがよくわからない)。間身体性があるため、同時刻圏があるのか?
歴史幻想のもとでは、歴史的現在とは、自然的な原秩序のうえにのっかった、かさぶたのようなものである。こうして、人間は解放すべき存在として、(再)発見されることになる。
このあたりの議論は、どういうわけかマルクス主義批判、資本制批判になっている。しかし、歴史が共有されるのは、歴史的には王権が誕生したときである。そこから、比較的一枚岩的な歴史共有がなされていたが、近代になって歴史が分裂したと私は思う。しかし、橋爪の説明はそうではない。近代において歴史幻想が成立したという。どうも、このあたりがよくわらかない。
結:決して焦点も、また中心ももたない間身体的な事態の束が、歴史である。
第1章のダブル・リアリティはきわめて面白い。また、第4章の歴史についての議論はなかなか鋭くて、興味深いのだが、にもかかわらず、そこはよくわからない。残念である。いずれにしても、全体としてはきわめて意欲的な立論であることは確かだ。ただ、すべてに納得できるかというと、微妙である。ここにあげられた要素だけで、社会が語れるのかというと、疑問である。要素が足りないのか、あるいは枠組がまちがっているのか。おそらく、前者ではないのか。それが、私の感想である。
この本は、『言語派社会学の原理』よりも古いので、その点に注意。
1 ダブル・リアリティ
われわれの経験する社会的現実は、ダブル・リアリティ(二重の現実性)である。それは、現象学が記述する社会の様相と、唯物論が前提する社会の様相があまりに食い違っていて、なおかる相手を排斥できないということだという。そこには亀裂と抗争があるが、それは「真理」をめぐる対立ではなく、社会空間をめぐる文体の差異だと考えることにするという。哲学的言説のこうした分立は、おおkな解体の帰結である。それは、唯一神、創造神が死んだためである。異なる主観同士をつきあわせうる視界は存在しない。
ここで、話は変わって、身体の話になる。社会空間を充たしているのは、ひとびとの身体である。ここで、身体とは(事象の連鎖の)無際限な求心性の過程をともなう、事象の複合である。身体と身体の相互関係をつくるのは、言語である。<言語>は、身体と身体とがとり結ぶ相互関係の根源である。
そして、もう一度、主観と客観の問題に戻る。世界は客観の総体として了解されるが、それはある主観が直面する世界にすぎない。客観の総体としての世界は、わたしの身体とよぶのが正しい。14。身体と身体は互いを眺望できない並行関係にある。身体の秩序を考えるとき、記号や諸々の社会形式に注目すべきである。
そこで、最後に記号の話になる。記号の流通性を、記号の流通性以前の確実な根拠にさかのぼって基礎づけようとする試みには、無理がつきまとう。これまでの文体--現象学にせよ、唯物論にせよ--は、ある特定の実証観に立って、記号・社会形式の導出をはかった。しかし、それはうまくいかない。記号・社会形式はだれも見ていないときでさえも、そこ(社会空間のなか)にある。記号・社会形式は、身体と身体を関係づける基本的な作用素なのだ。つまり、これまで、社会的現実を記述する文体には、現象学的文体/唯物論的文体のふたつしかなく、どちらも記号や社会形式をぎこちなくしか論じられなかった。もし、記号・社会形式が導出できないのであれば、発想を転換し、記号・社会形式を第一公理とすればよい。これが、<言語>派社会学の出発点である。
なかなか、興味深い立論である。鋭さを感じるし、また納得させられる点もある。私の疑問は、認識論と社会理論は同じものか、ということである。認識としての主観、客観、関身体性は納得できたとしよう。しかし、それは認識の問題である。社会が認識と同じであるという説明は何もない。

2 記号空間=社会
以下、命題の紹介。
社会は、局所性と全域性とをそなえた、ひとつの場である。
社会の局所場として、身体がある。
身体は、無限求心性をそなえる事態である。
事態の全体連関が、宇宙をなす。
記号能力は、身体を分節/統合へともたらす。
身体は、自らの分節/統合の秩序にもとづいて、自らを世界へとつくりなす。
身体は、事象の全体連関のなかで、事象の地平線を張る。
事象の地平線が身体の求心性にとらえられるときに、身体像が描かれる。
了解は、自己身体像、他者身体像、事物像からなる現実的な拡がり--世界--を構成する。
自己性を軸に分節/統合をとげた身体は、自己身体像のなかに身体図式を、自他身体像のあいだに人称構造を、生ずる。
社会は、間身体的な作用諸力によって張られ、身体の全域からなるような、記号空間である。
3 間身体的作用力論
間身体的作用力は、事象の連鎖のうえにたつ。
間身体的作用力の種別は、1自然力、2<性>、3<言語>、4権力、の4つである。
<性>の作用力は、身体が身体像として了解される感性的な仕方を通じてはたらく。
言語は、身体の規範的律動のうえにたち、"意味"を指示するようにはたらく作用力である。
規範的律動においてとらえられた身体の活動が、行為である。
行為に発する遠心的な過程が、表現である。
表現が定立する形式性を、<言語>的定在という。
<言語>は、身体の規範的な律動のうえにたつ作用力である。
権力は、了解の集合性を経由して、身体にはたらく。
社会は、間身体的な作用諸力によって張られ、身体の全域からなるような、記号空間である。
4 歴史:局所と全域における
歴史に関して素朴に抱かれるイメージは、'歴史的な事実の一系列'とでも名付ければよいような内容である。しかし、これはある歴史的な営為の産物にほかならない。歴史的な事実がひとつの秩序ある系列をなすことができるためには、われわれがそれを言説のなかに置き換えるという操作が不可避な前提になっている。これら歴史的な言明は、あくまでも現在に帰属するものであり、現在における歴史学的な営為以外のものではない。素朴に歴史的な事実の一系列と思われていた歴史なるものの概念は二層へと変貌をとげる。ひとつは、歴史(学)的な言説そのもの、もうひとつは、そのような歴史(学)的な言説によって言及される、その対象である限りでの、歴史的な事実そのもの。。この構造を通して明らかなのは、ある事実が歴史的であるためには、それがある歴史(学)的な言説によって言及され、その言及のなかで対象として構成され、その存在をえるものでなければならないということである。209
歴史(学)的な言説は、ところが、それ自身歴史を述定するだけの性能をもたない。ここから、3つの論点が抽出される。1)歴史の全域問題、2)歴史幻想の問題、3)歴史-文体問題、である。
ひとが歴史的な現実を生きるということは、ひとが、刻々の歴史的現在に分断され、その差異づけられた場所でたえる、ということである。ある身体の現在は、その歴史的な規定によって他の身体の現在とは区別されている。しかし、身体と身体の上には同時刻圏が仮構される(ここがよくわからない)。間身体性があるため、同時刻圏があるのか?
歴史幻想のもとでは、歴史的現在とは、自然的な原秩序のうえにのっかった、かさぶたのようなものである。こうして、人間は解放すべき存在として、(再)発見されることになる。
このあたりの議論は、どういうわけかマルクス主義批判、資本制批判になっている。しかし、歴史が共有されるのは、歴史的には王権が誕生したときである。そこから、比較的一枚岩的な歴史共有がなされていたが、近代になって歴史が分裂したと私は思う。しかし、橋爪の説明はそうではない。近代において歴史幻想が成立したという。どうも、このあたりがよくわらかない。
結:決して焦点も、また中心ももたない間身体的な事態の束が、歴史である。
第1章のダブル・リアリティはきわめて面白い。また、第4章の歴史についての議論はなかなか鋭くて、興味深いのだが、にもかかわらず、そこはよくわからない。残念である。いずれにしても、全体としてはきわめて意欲的な立論であることは確かだ。ただ、すべてに納得できるかというと、微妙である。ここにあげられた要素だけで、社会が語れるのかというと、疑問である。要素が足りないのか、あるいは枠組がまちがっているのか。おそらく、前者ではないのか。それが、私の感想である。
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NAME:蝉丸
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