橋爪大三郎『言語ゲームと社会理論』勁草書房
橋爪大三郎 『言語ゲームと社会理論 ウィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン』 勁草書房1985
本書は3部構成で、言語ゲームを社会理論に応用する道を考えるものである。まずウィトゲンシュタインの理論を紹介し、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論の応用としてハートの法理論を紹介する。そして、最後に言語ゲームの立場からルーマンの予期理論を批判する。
第1章 〈言語ゲーム〉--ヴィトゲンシュタイン--
ヴィトゲンシュタインの〈言語ゲーム〉のアイデアは、前期の写像理論と対比し、いわばその「反転図形」だと理解するのが、いちばんわかりやすい。10 前期思想では、世界はその構成素である事態に分解でき、事態はそれを織りなすいくつかのもの、あるいは対象に分解できる。これに対応して、言語には要素命題がある。命題が事態をさすことができるのは、両者が写像形式を共有しているからである。こうした言語と世界についての描像により、ヴィトゲンシュタインは満足した。
しかし、彼は二度目の挑戦をはじめる。
どんな命題でも要素命題に分解できるということは、誤った観念である。直示的定義は不可能だと結論する。
では、写像関係でないとすれば、何によって、言語はいみあるものとなるのか?ウィトゲンシュタインは文法を考えた。言語は世界の影ではなく、世界の自立的な一契機である。では、言語に秩序を与えている文法は、どんなあり方をしているのか。
たとえば「歯が痛い」といった各自の内面を相互に伝達しあうような言語は、成立不可能である。私的体験があるのでhなあい。私的体験を報告しあう言語ゲームだけがある。つまり、われわれは言語ゲームに棲まわれる限りで私的経験を持つようになる、と考える。1)
私的体験以外の行為についても同じことがいえる。意図や予想、願望、記憶、命令なども言語によってうみだされる私的なできごとである。これらも言語ゲームの諸規則のなかでだけそうしたものでありうる。
言語はこうして、世界と区別され、世界と別の固有秩序をもつことになった。言語は主体の統制に服するどころか、かえって主体をうみだしさえする。主体よりも、言語ゲームの秩序のほうが、根本的である。
加えて、ウィトゲンシュタインは数学もまたひとつの言語ゲームであるとする。論理学は数学や思考を規定し拘束するようにみえるが、それはみかけだけである。論理学は、あれこれの言語ゲームの内実だ。論理学が言語ゲームを基礎づける資格をもっていない。では、私たちは自分の行動の根拠を示すことはできないのか。われわれのふるまいは、根拠が示されなくても、それ自身が根拠となって、自らを支えている。日常言語は、世界の不完全な写像ではなく、我々の世界そのものである。言語において、人間の生活様式、諸判断は一致する。言語とはまさにこのような一致のことである。
ここで、橋爪は言語ゲームをめぐる困難について述べる。それは、言語ゲームについて積極的な言明を展開できないことである。が、それよりも本当の困難は、〈言語ゲーム〉を客観的・実証的に論ずることがそもそもできない、という点にあるとする。理論的な言説によって、〈言語ゲーム〉を確定することはできない。なぜならば、理論的な言説を基礎づけ、その根拠を与えているのはほかならぬ〈言語ゲーム〉だから。
この困難があるがゆえに、彼のテキストはアンチ・テクストであると橋爪はいう。『哲学探究』そのほかの彼の手稿の断片は〈言語ゲーム〉を記述する超テクストを出現させるための、仮想的な仕掛け=装置であった。橋爪のみるところ、彼の超テクストには次のように書きとめられている。

きわめてわかりやすくウィトゲンシュタインの理論について説明されている。ただ、おそらく橋爪が社会学者であり、社会理論として言語ゲームをとらえているため、偏りがあるように思われる。
ここで、次のような疑問が生じる。言語ゲームを社会理論としてとらえることに、はたして正当性はあるのだろうか。私が気になったのはこの点である。ウィトゲンシュタインは、前期が独我論といわれるように、自分に異常なまでに興味がある人だ。逆にいえば、社会には興味がない人だろう。したがって、彼の理論は認識論であり、形而上学の伝統をひく哲学であることはたしかだが、社会という視点は欠落していると思われる。にもかかわらず、それをそのまま社会理論に応用できるのか、ということだ。
世界を言語ゲームとしてみることが、仮に正しいとしても、それは認識の問題である。社会を言語ゲームとしてみるのはまた異なることだろう。換言すると、社会を説明するには、ウィトゲンシュタインが提示した要素では足りないのではないかと思うということだ。橋爪もまたその点に気づいているのか、別稿で、言語に加えて、性、権力を要素にしている。その要素追加に、ウィトゲンシュタインの理論からの必然性はあるのだろうか。この点について、私たちは検証しなければならないだろう。
もうひとつの疑問点は、〈言語ゲーム〉を客観的・実証的に論ずることができないという点である。ほんとうにできないのだろうか。私たちの日常と言語が一致しているのはたしかであるし、思考と言語も一致しているだろう。しかし、だからといって、言語は私たちを内閉しているのだろうか。言語の外はないと断言できるのか?
なぜ、そういうのかというと、私たちの日常がすべてが言語的日常とは限らない、あるいは私たちの思考がすべて言語的思考であるとは限らないという可能性があると考えるからだ。言語外の思考がないというのなら、それを証明してもらわなければ困る。もちろん、私のほうでは、言語外の思考の存在を証明する必要があるだろう。いま、いったことはたんなる直観であり、真剣に考えたことではない。今後、考えたい。
たとえば、「歯が痛い」という感覚が、ひとつの重要な論点になっている。この点については、最近の脳科学で発見された「ミラーニューロン」が、ウィトゲンシュタインの主張の反証になっているように思われる。ミラーニューロンがあるから、私的体験は共有される。共有されるからこそ、私的体験を伝えたいという欲求が生まれ、それを伝える言語ができたという可能性がある。このミラーニューロンによる私的体験の共有は、前言語的なものである。ミラーニューロンはサルにもあるのだ。私たちが前言語的に私的体験を共有できることはたしかなのである。
法規範の
好みは分かれるだろうが...
方法論を求めて
本書は3部構成で、言語ゲームを社会理論に応用する道を考えるものである。まずウィトゲンシュタインの理論を紹介し、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論の応用としてハートの法理論を紹介する。そして、最後に言語ゲームの立場からルーマンの予期理論を批判する。
第1章 〈言語ゲーム〉--ヴィトゲンシュタイン--
ヴィトゲンシュタインの〈言語ゲーム〉のアイデアは、前期の写像理論と対比し、いわばその「反転図形」だと理解するのが、いちばんわかりやすい。10 前期思想では、世界はその構成素である事態に分解でき、事態はそれを織りなすいくつかのもの、あるいは対象に分解できる。これに対応して、言語には要素命題がある。命題が事態をさすことができるのは、両者が写像形式を共有しているからである。こうした言語と世界についての描像により、ヴィトゲンシュタインは満足した。
しかし、彼は二度目の挑戦をはじめる。
どんな命題でも要素命題に分解できるということは、誤った観念である。直示的定義は不可能だと結論する。
では、写像関係でないとすれば、何によって、言語はいみあるものとなるのか?ウィトゲンシュタインは文法を考えた。言語は世界の影ではなく、世界の自立的な一契機である。では、言語に秩序を与えている文法は、どんなあり方をしているのか。
たとえば「歯が痛い」といった各自の内面を相互に伝達しあうような言語は、成立不可能である。私的体験があるのでhなあい。私的体験を報告しあう言語ゲームだけがある。つまり、われわれは言語ゲームに棲まわれる限りで私的経験を持つようになる、と考える。1)
私的体験以外の行為についても同じことがいえる。意図や予想、願望、記憶、命令なども言語によってうみだされる私的なできごとである。これらも言語ゲームの諸規則のなかでだけそうしたものでありうる。
言語はこうして、世界と区別され、世界と別の固有秩序をもつことになった。言語は主体の統制に服するどころか、かえって主体をうみだしさえする。主体よりも、言語ゲームの秩序のほうが、根本的である。
加えて、ウィトゲンシュタインは数学もまたひとつの言語ゲームであるとする。論理学は数学や思考を規定し拘束するようにみえるが、それはみかけだけである。論理学は、あれこれの言語ゲームの内実だ。論理学が言語ゲームを基礎づける資格をもっていない。では、私たちは自分の行動の根拠を示すことはできないのか。われわれのふるまいは、根拠が示されなくても、それ自身が根拠となって、自らを支えている。日常言語は、世界の不完全な写像ではなく、我々の世界そのものである。言語において、人間の生活様式、諸判断は一致する。言語とはまさにこのような一致のことである。
ここで、橋爪は言語ゲームをめぐる困難について述べる。それは、言語ゲームについて積極的な言明を展開できないことである。が、それよりも本当の困難は、〈言語ゲーム〉を客観的・実証的に論ずることがそもそもできない、という点にあるとする。理論的な言説によって、〈言語ゲーム〉を確定することはできない。なぜならば、理論的な言説を基礎づけ、その根拠を与えているのはほかならぬ〈言語ゲーム〉だから。
この困難があるがゆえに、彼のテキストはアンチ・テクストであると橋爪はいう。『哲学探究』そのほかの彼の手稿の断片は〈言語ゲーム〉を記述する超テクストを出現させるための、仮想的な仕掛け=装置であった。橋爪のみるところ、彼の超テクストには次のように書きとめられている。
- われわれの営む社会は、挙措動作を含めて、数知れぬ言語ゲームの渦巻である。
- 〈言語ゲーム〉(総体)について、対象化的に言及したり、帰納的な結論をひきだしたりすることはできない。なぜなら、そうした試み自体が新たな言語ゲームであり、言及や結論をはみ出してしまうから。
- 個々の言語ゲームを記述することは可能である。それは論理学とよばれる。
- 論理学が、もとの言語ゲームの規則性を明示的なかたちで呈示する。けれども、それはもとの言語ゲームに根拠を与えるわけでも、規定するわけでもない。

きわめてわかりやすくウィトゲンシュタインの理論について説明されている。ただ、おそらく橋爪が社会学者であり、社会理論として言語ゲームをとらえているため、偏りがあるように思われる。
ここで、次のような疑問が生じる。言語ゲームを社会理論としてとらえることに、はたして正当性はあるのだろうか。私が気になったのはこの点である。ウィトゲンシュタインは、前期が独我論といわれるように、自分に異常なまでに興味がある人だ。逆にいえば、社会には興味がない人だろう。したがって、彼の理論は認識論であり、形而上学の伝統をひく哲学であることはたしかだが、社会という視点は欠落していると思われる。にもかかわらず、それをそのまま社会理論に応用できるのか、ということだ。
世界を言語ゲームとしてみることが、仮に正しいとしても、それは認識の問題である。社会を言語ゲームとしてみるのはまた異なることだろう。換言すると、社会を説明するには、ウィトゲンシュタインが提示した要素では足りないのではないかと思うということだ。橋爪もまたその点に気づいているのか、別稿で、言語に加えて、性、権力を要素にしている。その要素追加に、ウィトゲンシュタインの理論からの必然性はあるのだろうか。この点について、私たちは検証しなければならないだろう。
もうひとつの疑問点は、〈言語ゲーム〉を客観的・実証的に論ずることができないという点である。ほんとうにできないのだろうか。私たちの日常と言語が一致しているのはたしかであるし、思考と言語も一致しているだろう。しかし、だからといって、言語は私たちを内閉しているのだろうか。言語の外はないと断言できるのか?
なぜ、そういうのかというと、私たちの日常がすべてが言語的日常とは限らない、あるいは私たちの思考がすべて言語的思考であるとは限らないという可能性があると考えるからだ。言語外の思考がないというのなら、それを証明してもらわなければ困る。もちろん、私のほうでは、言語外の思考の存在を証明する必要があるだろう。いま、いったことはたんなる直観であり、真剣に考えたことではない。今後、考えたい。
たとえば、「歯が痛い」という感覚が、ひとつの重要な論点になっている。この点については、最近の脳科学で発見された「ミラーニューロン」が、ウィトゲンシュタインの主張の反証になっているように思われる。ミラーニューロンがあるから、私的体験は共有される。共有されるからこそ、私的体験を伝えたいという欲求が生まれ、それを伝える言語ができたという可能性がある。このミラーニューロンによる私的体験の共有は、前言語的なものである。ミラーニューロンはサルにもあるのだ。私たちが前言語的に私的体験を共有できることはたしかなのである。
言語ゲームと社会理論―ヴィトゲンシュタイン ハート・ルーマン
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橋爪 大三郎
勁草書房
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法規範の
好みは分かれるだろうが...
方法論を求めて橋爪大三郎コレクションI 身体論 勁草書房
立ち続けに橋爪の本を読んでみた。これもまたむずかしい。理屈だけでゴリゴリ押していて、具体的な話が何もないので、けっこう読むのにくたびれた。私の頭が悪いからであるが。
この本は、『言語派社会学の原理』よりも古いので、その点に注意。
1 ダブル・リアリティ
われわれの経験する社会的現実は、ダブル・リアリティ(二重の現実性)である。それは、現象学が記述する社会の様相と、唯物論が前提する社会の様相があまりに食い違っていて、なおかる相手を排斥できないということだという。そこには亀裂と抗争があるが、それは「真理」をめぐる対立ではなく、社会空間をめぐる文体の差異だと考えることにするという。哲学的言説のこうした分立は、おおkな解体の帰結である。それは、唯一神、創造神が死んだためである。異なる主観同士をつきあわせうる視界は存在しない。
ここで、話は変わって、身体の話になる。社会空間を充たしているのは、ひとびとの身体である。ここで、身体とは(事象の連鎖の)無際限な求心性の過程をともなう、事象の複合である。身体と身体の相互関係をつくるのは、言語である。<言語>は、身体と身体とがとり結ぶ相互関係の根源である。
そして、もう一度、主観と客観の問題に戻る。世界は客観の総体として了解されるが、それはある主観が直面する世界にすぎない。客観の総体としての世界は、わたしの身体とよぶのが正しい。14。身体と身体は互いを眺望できない並行関係にある。身体の秩序を考えるとき、記号や諸々の社会形式に注目すべきである。
そこで、最後に記号の話になる。記号の流通性を、記号の流通性以前の確実な根拠にさかのぼって基礎づけようとする試みには、無理がつきまとう。これまでの文体--現象学にせよ、唯物論にせよ--は、ある特定の実証観に立って、記号・社会形式の導出をはかった。しかし、それはうまくいかない。記号・社会形式はだれも見ていないときでさえも、そこ(社会空間のなか)にある。記号・社会形式は、身体と身体を関係づける基本的な作用素なのだ。つまり、これまで、社会的現実を記述する文体には、現象学的文体/唯物論的文体のふたつしかなく、どちらも記号や社会形式をぎこちなくしか論じられなかった。もし、記号・社会形式が導出できないのであれば、発想を転換し、記号・社会形式を第一公理とすればよい。これが、<言語>派社会学の出発点である。
なかなか、興味深い立論である。鋭さを感じるし、また納得させられる点もある。私の疑問は、認識論と社会理論は同じものか、ということである。認識としての主観、客観、関身体性は納得できたとしよう。しかし、それは認識の問題である。社会が認識と同じであるという説明は何もない。

2 記号空間=社会
以下、命題の紹介。
社会は、局所性と全域性とをそなえた、ひとつの場である。
社会の局所場として、身体がある。
身体は、無限求心性をそなえる事態である。
事態の全体連関が、宇宙をなす。
記号能力は、身体を分節/統合へともたらす。
身体は、自らの分節/統合の秩序にもとづいて、自らを世界へとつくりなす。
身体は、事象の全体連関のなかで、事象の地平線を張る。
事象の地平線が身体の求心性にとらえられるときに、身体像が描かれる。
了解は、自己身体像、他者身体像、事物像からなる現実的な拡がり--世界--を構成する。
自己性を軸に分節/統合をとげた身体は、自己身体像のなかに身体図式を、自他身体像のあいだに人称構造を、生ずる。
社会は、間身体的な作用諸力によって張られ、身体の全域からなるような、記号空間である。
3 間身体的作用力論
間身体的作用力は、事象の連鎖のうえにたつ。
間身体的作用力の種別は、1自然力、2<性>、3<言語>、4権力、の4つである。
<性>の作用力は、身体が身体像として了解される感性的な仕方を通じてはたらく。
言語は、身体の規範的律動のうえにたち、"意味"を指示するようにはたらく作用力である。
規範的律動においてとらえられた身体の活動が、行為である。
行為に発する遠心的な過程が、表現である。
表現が定立する形式性を、<言語>的定在という。
<言語>は、身体の規範的な律動のうえにたつ作用力である。
権力は、了解の集合性を経由して、身体にはたらく。
社会は、間身体的な作用諸力によって張られ、身体の全域からなるような、記号空間である。
4 歴史:局所と全域における
歴史に関して素朴に抱かれるイメージは、'歴史的な事実の一系列'とでも名付ければよいような内容である。しかし、これはある歴史的な営為の産物にほかならない。歴史的な事実がひとつの秩序ある系列をなすことができるためには、われわれがそれを言説のなかに置き換えるという操作が不可避な前提になっている。これら歴史的な言明は、あくまでも現在に帰属するものであり、現在における歴史学的な営為以外のものではない。素朴に歴史的な事実の一系列と思われていた歴史なるものの概念は二層へと変貌をとげる。ひとつは、歴史(学)的な言説そのもの、もうひとつは、そのような歴史(学)的な言説によって言及される、その対象である限りでの、歴史的な事実そのもの。。この構造を通して明らかなのは、ある事実が歴史的であるためには、それがある歴史(学)的な言説によって言及され、その言及のなかで対象として構成され、その存在をえるものでなければならないということである。209
歴史(学)的な言説は、ところが、それ自身歴史を述定するだけの性能をもたない。ここから、3つの論点が抽出される。1)歴史の全域問題、2)歴史幻想の問題、3)歴史-文体問題、である。
ひとが歴史的な現実を生きるということは、ひとが、刻々の歴史的現在に分断され、その差異づけられた場所でたえる、ということである。ある身体の現在は、その歴史的な規定によって他の身体の現在とは区別されている。しかし、身体と身体の上には同時刻圏が仮構される(ここがよくわからない)。間身体性があるため、同時刻圏があるのか?
歴史幻想のもとでは、歴史的現在とは、自然的な原秩序のうえにのっかった、かさぶたのようなものである。こうして、人間は解放すべき存在として、(再)発見されることになる。
このあたりの議論は、どういうわけかマルクス主義批判、資本制批判になっている。しかし、歴史が共有されるのは、歴史的には王権が誕生したときである。そこから、比較的一枚岩的な歴史共有がなされていたが、近代になって歴史が分裂したと私は思う。しかし、橋爪の説明はそうではない。近代において歴史幻想が成立したという。どうも、このあたりがよくわらかない。
結:決して焦点も、また中心ももたない間身体的な事態の束が、歴史である。
第1章のダブル・リアリティはきわめて面白い。また、第4章の歴史についての議論はなかなか鋭くて、興味深いのだが、にもかかわらず、そこはよくわからない。残念である。いずれにしても、全体としてはきわめて意欲的な立論であることは確かだ。ただ、すべてに納得できるかというと、微妙である。ここにあげられた要素だけで、社会が語れるのかというと、疑問である。要素が足りないのか、あるいは枠組がまちがっているのか。おそらく、前者ではないのか。それが、私の感想である。
この本は、『言語派社会学の原理』よりも古いので、その点に注意。
1 ダブル・リアリティ
われわれの経験する社会的現実は、ダブル・リアリティ(二重の現実性)である。それは、現象学が記述する社会の様相と、唯物論が前提する社会の様相があまりに食い違っていて、なおかる相手を排斥できないということだという。そこには亀裂と抗争があるが、それは「真理」をめぐる対立ではなく、社会空間をめぐる文体の差異だと考えることにするという。哲学的言説のこうした分立は、おおkな解体の帰結である。それは、唯一神、創造神が死んだためである。異なる主観同士をつきあわせうる視界は存在しない。
ここで、話は変わって、身体の話になる。社会空間を充たしているのは、ひとびとの身体である。ここで、身体とは(事象の連鎖の)無際限な求心性の過程をともなう、事象の複合である。身体と身体の相互関係をつくるのは、言語である。<言語>は、身体と身体とがとり結ぶ相互関係の根源である。
そして、もう一度、主観と客観の問題に戻る。世界は客観の総体として了解されるが、それはある主観が直面する世界にすぎない。客観の総体としての世界は、わたしの身体とよぶのが正しい。14。身体と身体は互いを眺望できない並行関係にある。身体の秩序を考えるとき、記号や諸々の社会形式に注目すべきである。
そこで、最後に記号の話になる。記号の流通性を、記号の流通性以前の確実な根拠にさかのぼって基礎づけようとする試みには、無理がつきまとう。これまでの文体--現象学にせよ、唯物論にせよ--は、ある特定の実証観に立って、記号・社会形式の導出をはかった。しかし、それはうまくいかない。記号・社会形式はだれも見ていないときでさえも、そこ(社会空間のなか)にある。記号・社会形式は、身体と身体を関係づける基本的な作用素なのだ。つまり、これまで、社会的現実を記述する文体には、現象学的文体/唯物論的文体のふたつしかなく、どちらも記号や社会形式をぎこちなくしか論じられなかった。もし、記号・社会形式が導出できないのであれば、発想を転換し、記号・社会形式を第一公理とすればよい。これが、<言語>派社会学の出発点である。
なかなか、興味深い立論である。鋭さを感じるし、また納得させられる点もある。私の疑問は、認識論と社会理論は同じものか、ということである。認識としての主観、客観、関身体性は納得できたとしよう。しかし、それは認識の問題である。社会が認識と同じであるという説明は何もない。

2 記号空間=社会
以下、命題の紹介。
社会は、局所性と全域性とをそなえた、ひとつの場である。
社会の局所場として、身体がある。
身体は、無限求心性をそなえる事態である。
事態の全体連関が、宇宙をなす。
記号能力は、身体を分節/統合へともたらす。
身体は、自らの分節/統合の秩序にもとづいて、自らを世界へとつくりなす。
身体は、事象の全体連関のなかで、事象の地平線を張る。
事象の地平線が身体の求心性にとらえられるときに、身体像が描かれる。
了解は、自己身体像、他者身体像、事物像からなる現実的な拡がり--世界--を構成する。
自己性を軸に分節/統合をとげた身体は、自己身体像のなかに身体図式を、自他身体像のあいだに人称構造を、生ずる。
社会は、間身体的な作用諸力によって張られ、身体の全域からなるような、記号空間である。
3 間身体的作用力論
間身体的作用力は、事象の連鎖のうえにたつ。
間身体的作用力の種別は、1自然力、2<性>、3<言語>、4権力、の4つである。
<性>の作用力は、身体が身体像として了解される感性的な仕方を通じてはたらく。
言語は、身体の規範的律動のうえにたち、"意味"を指示するようにはたらく作用力である。
規範的律動においてとらえられた身体の活動が、行為である。
行為に発する遠心的な過程が、表現である。
表現が定立する形式性を、<言語>的定在という。
<言語>は、身体の規範的な律動のうえにたつ作用力である。
権力は、了解の集合性を経由して、身体にはたらく。
社会は、間身体的な作用諸力によって張られ、身体の全域からなるような、記号空間である。
4 歴史:局所と全域における
歴史に関して素朴に抱かれるイメージは、'歴史的な事実の一系列'とでも名付ければよいような内容である。しかし、これはある歴史的な営為の産物にほかならない。歴史的な事実がひとつの秩序ある系列をなすことができるためには、われわれがそれを言説のなかに置き換えるという操作が不可避な前提になっている。これら歴史的な言明は、あくまでも現在に帰属するものであり、現在における歴史学的な営為以外のものではない。素朴に歴史的な事実の一系列と思われていた歴史なるものの概念は二層へと変貌をとげる。ひとつは、歴史(学)的な言説そのもの、もうひとつは、そのような歴史(学)的な言説によって言及される、その対象である限りでの、歴史的な事実そのもの。。この構造を通して明らかなのは、ある事実が歴史的であるためには、それがある歴史(学)的な言説によって言及され、その言及のなかで対象として構成され、その存在をえるものでなければならないということである。209
歴史(学)的な言説は、ところが、それ自身歴史を述定するだけの性能をもたない。ここから、3つの論点が抽出される。1)歴史の全域問題、2)歴史幻想の問題、3)歴史-文体問題、である。
ひとが歴史的な現実を生きるということは、ひとが、刻々の歴史的現在に分断され、その差異づけられた場所でたえる、ということである。ある身体の現在は、その歴史的な規定によって他の身体の現在とは区別されている。しかし、身体と身体の上には同時刻圏が仮構される(ここがよくわからない)。間身体性があるため、同時刻圏があるのか?
歴史幻想のもとでは、歴史的現在とは、自然的な原秩序のうえにのっかった、かさぶたのようなものである。こうして、人間は解放すべき存在として、(再)発見されることになる。
このあたりの議論は、どういうわけかマルクス主義批判、資本制批判になっている。しかし、歴史が共有されるのは、歴史的には王権が誕生したときである。そこから、比較的一枚岩的な歴史共有がなされていたが、近代になって歴史が分裂したと私は思う。しかし、橋爪の説明はそうではない。近代において歴史幻想が成立したという。どうも、このあたりがよくわらかない。
結:決して焦点も、また中心ももたない間身体的な事態の束が、歴史である。
第1章のダブル・リアリティはきわめて面白い。また、第4章の歴史についての議論はなかなか鋭くて、興味深いのだが、にもかかわらず、そこはよくわからない。残念である。いずれにしても、全体としてはきわめて意欲的な立論であることは確かだ。ただ、すべてに納得できるかというと、微妙である。ここにあげられた要素だけで、社会が語れるのかというと、疑問である。要素が足りないのか、あるいは枠組がまちがっているのか。おそらく、前者ではないのか。それが、私の感想である。
上野千鶴子、毒舌全開で、内田樹を反駁。
先日、内田樹が上野千鶴子に対する批判を週刊ポストにのせたが、それに対して、上野千鶴子が反駁した。
上野の反論のイキオイが凄い。頭から湯気が立っている(霊視で見えた)。曰く

というように、上野は「家族が嫌い」といったことはないという。しかし、最重要な論点はここにあると思う。明示的に述べていなくても、そういう気持ちはあると思う。それを内田は行間から読み取って、提示した。そこに、内田の鋭さがあると思う。だから、内田は、相手がそういっていないと主張すれば、なぜそう読み取ったのかを説明する義務がある。
とはいえ、上野はそれを否定しているから、そこから逃げるのではなく、やはり、その論点で議論してほしいものだ。本ブログのエントリーでは、検索エンジンの入力アシスタントに出てくる語彙から判断すると、夫を嫌っている妻がきわめて多いのではないかと思われることを示した。内田がいうように、それは抑圧されている。その抑圧をふりほどいて、議論の俎上にのせることに意味がある。だからこそ、本ブログで、内田の議論を取り上げたのだ。
つまり、上野=家族が嫌い、内田=家族好き、で論争してほしい。
もちろん論点はそれ以外にもある。上野は、内田のいう主従関係や師弟関係を批判する。それは私も同じ気持だ。なんでいまさら主従関係、師弟関係なの?と思う。しかし、この点はどうでもいい。内田が主従関係が好きなら、武道の道場でもなんでもやればいい。やりたい人は勝手にやるだけで、その分には誰も文句はないだろう。
ただ、前回のエントリーでも書いたが、家庭愛に価値を見出すという立場をとれば、内田は幸せで、上野は不幸だ。幸せ者が不幸な者を叩くというのは、弱いものいじめである。実際、上野は、内田の主張を「強者のシナリオ」としてたたき切っている。
最後に上野は論争のマナーについて、ひとくさり述べて、内田と週刊ポスト編集部に対して説教を垂れている。転んでも、タダでは起きないヒトです。そして、この件について、公開の場で内田と対談する用意があるという。ぜひ、実現してほしい。
●関連エントリー
内田樹が、上野千鶴子にかみついた。
上野千鶴子の「恨み節」炸裂。
『週刊ポスト2010/6/11号』
「おひとりさま」論争に新展開
東京大学大学院教授 上野千鶴子が内田樹 神戸女学院大学教授を弁駁
家族と会社組織の復活など時代錯誤だ
上野の反論のイキオイが凄い。頭から湯気が立っている(霊視で見えた)。曰く
内田樹にけんかを売られた。けんかが好きなわけではないが、ふりかかった火の粉は払わねばならない。内田氏を批判したわけでもないわたしの著書(『おひとりさまの老後』)に氏が「反論」というのもおかしなものだが、批判されたからにはわたしのほうに氏に反論する理由がある。...
まず、第1に、氏のわたしへの「反論」が、誤読にもとづく「わら人形叩き」だと指摘したい...
氏は「あの本の核心は『家族が嫌い』ということをカミングアウトした部分でしょう。......その心情は抑圧されていた。上野さんがそれを代弁したことが広く共感を呼んだのだと思います」という。批判するときにはどの本の何頁にどういう文章があると典拠を示すのがルールだが、それは述べられていない。わたしの本にはどこにも一行もそんなことは書かれていない。

というように、上野は「家族が嫌い」といったことはないという。しかし、最重要な論点はここにあると思う。明示的に述べていなくても、そういう気持ちはあると思う。それを内田は行間から読み取って、提示した。そこに、内田の鋭さがあると思う。だから、内田は、相手がそういっていないと主張すれば、なぜそう読み取ったのかを説明する義務がある。
とはいえ、上野はそれを否定しているから、そこから逃げるのではなく、やはり、その論点で議論してほしいものだ。本ブログのエントリーでは、検索エンジンの入力アシスタントに出てくる語彙から判断すると、夫を嫌っている妻がきわめて多いのではないかと思われることを示した。内田がいうように、それは抑圧されている。その抑圧をふりほどいて、議論の俎上にのせることに意味がある。だからこそ、本ブログで、内田の議論を取り上げたのだ。
つまり、上野=家族が嫌い、内田=家族好き、で論争してほしい。
もちろん論点はそれ以外にもある。上野は、内田のいう主従関係や師弟関係を批判する。それは私も同じ気持だ。なんでいまさら主従関係、師弟関係なの?と思う。しかし、この点はどうでもいい。内田が主従関係が好きなら、武道の道場でもなんでもやればいい。やりたい人は勝手にやるだけで、その分には誰も文句はないだろう。
ただ、前回のエントリーでも書いたが、家庭愛に価値を見出すという立場をとれば、内田は幸せで、上野は不幸だ。幸せ者が不幸な者を叩くというのは、弱いものいじめである。実際、上野は、内田の主張を「強者のシナリオ」としてたたき切っている。
最後に上野は論争のマナーについて、ひとくさり述べて、内田と週刊ポスト編集部に対して説教を垂れている。転んでも、タダでは起きないヒトです。そして、この件について、公開の場で内田と対談する用意があるという。ぜひ、実現してほしい。
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おひとりさまの老後
上野 千鶴子 法研 2007-07 コメント:お母さん、鵜呑みにしちゃいけません コメント:気楽な提案だと受け取ればよいのでは コメント:この人の学者としての力量はどのくらいなんだろう? コメント:なんというか コメント:人間、死ぬときは独り。 |

NAME:蝉丸
PROFILE:自宅警備員
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