ちょっと薄っぺらじゃないですか、東浩紀さん。
東浩紀の『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』を読んでいる。福嶋亮大との対談「オルタナティブの思想」では、かなり赤裸々に自分の研究と思考法を説明している。楽屋裏をみせているというか・・・。で、わかったことは、彼は露悪的ないい方でいっているにせよ、はっきりいって薄っぺらだということだ。
と、このように動機、問題意識がないことを主張している。これはネガティブにいっているようで、彼自身の立場をポジティブにいったものだ。その動機、問題意識のない地点から、いかに批評するのか、それが先行する世代にはない彼ら世代の特長であるとアピールしているわけだ。それを理解した上で、あえて、これは薄っぺらだといいたい。ペラペラじゃないか。問題意識こそが、すべての出発点であり、思考のエネルギー源であると思うのだが、そう感じる私が古いのか。
この対談を読んでよくわかるのは、東が、あるいは東世代がきわめてメタな思考をもっているということである。メタな思考は、ゲームから来ると東は説明しているが、それは私が思うに、おそらく、醒めた意識からくるものだ。しかし、次の説明にはがっかりした。
哲学をなりわいにしている人が、この説明はないだろう。あまりに底が浅い。「経験的-超越論的二重体」は西洋の形而上学のもっとも重要な点に触れるものなので、それを「あるときには動物で、あるときには神になる」と簡単にいってしまうのはいかがなものか。クラインの壷のモデルも馬鹿げているが、東の説明はむむむなのだ。「経験的-超越論的二重体」という概念には、人間の認識能力の問題がかかわっており、きわめて重要である。人間とは何かを認識の問題から解き明かすカギがそこにあると思うのだ。
というように、批判的なことを書いてしまったが、この本はいい本だ。東浩紀に対しても、けっして悪く思っているわけではありません。
★★★★★ 東浩紀のメタ的な思考がわかる。
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アーキテクチャという新しい権力の形。
僕は北田さんの世代においては、そういう「欲望の三角形」、つまりだれかのために思想の言葉を使うという回路が、マルクス主義の崩壊のせいで機能しなくなってしまった。その結果どうなったかというと、僕にしても北田さんにしても、先行世代の主張を先行世代以上の賢く、チャート的に整理するという仕事しかできなくなっている。自分で言うのもなんですが、僕の『存在論的、郵便的』がそうです。デリダを論ずることでなにをしたいのか、という問題意識はない。しかし、とりあえず自分は頭がいいということは証明したい。というわけで、「デリダについてここまで明確に整理してみました。いかがでしょうか、浅田先生」とやったという仕事ですね。
そして、これは社会学の問題というより、いまの若い世代全体が抱えている問題だと思います。学問や思想に向かう動機がない。自分が認められたいという話にしかならない。これは必然的に保守的になる。むろん、いまでも社会問題はある。しかし、マルクス主義が終わってしまったいま、それれらの問題はあまりに複雑かつ繊細で、知的関心のある20代の大学院生がやすやすと代弁できるようなものではなくなっている。少なくとも、僕のような男性で日本人で中流階級で東京出身の人間が、デリダやドゥルーズを読んでなにをするのか、と言っても目的がないわけです。[302-303]
と、このように動機、問題意識がないことを主張している。これはネガティブにいっているようで、彼自身の立場をポジティブにいったものだ。その動機、問題意識のない地点から、いかに批評するのか、それが先行する世代にはない彼ら世代の特長であるとアピールしているわけだ。それを理解した上で、あえて、これは薄っぺらだといいたい。ペラペラじゃないか。問題意識こそが、すべての出発点であり、思考のエネルギー源であると思うのだが、そう感じる私が古いのか。
この対談を読んでよくわかるのは、東が、あるいは東世代がきわめてメタな思考をもっているということである。メタな思考は、ゲームから来ると東は説明しているが、それは私が思うに、おそらく、醒めた意識からくるものだ。しかし、次の説明にはがっかりした。
「メタとベタの二重体」というのは、難しくいえば、フーコーが『言葉と物』で言った「経験論的-超越論的二重体」のことですね。日本で流行ったイメージで言うとクラインの壷のモデルです。
この問題は『存在論的、郵便的』から考えてきたものですが、僕の主張は、人間はクラインの壷みたいなものではない、ということです。西洋の哲学では、人間は経験論的世界と超越論的世界を橋渡しする存在で、二重であるがゆえに苦しむんだ、という話がある。ようするに人間は神と動物の中間の存在という話です。「経験的-超越論的二重体」はその別の表現ですが、僕はそういう人間観は違うと思うわけです。むしろ僕は、人間とはあるときには動物で、あるときには神になる、それだけの存在だと思う。動物的快楽と人間的欲望は別のものとしてあって、弁証法的に統合できない。だから、メタゲームが暴走してどんどん超越論に行ってしまうときにそれを止めるものはないし、逆に動物的な快楽にどこまでも堕ちていくこともできる。いずれにせよ、それを止めるような仕組は、人間のなかにインストールされていない。[307-308]
哲学をなりわいにしている人が、この説明はないだろう。あまりに底が浅い。「経験的-超越論的二重体」は西洋の形而上学のもっとも重要な点に触れるものなので、それを「あるときには動物で、あるときには神になる」と簡単にいってしまうのはいかがなものか。クラインの壷のモデルも馬鹿げているが、東の説明はむむむなのだ。「経験的-超越論的二重体」という概念には、人間の認識能力の問題がかかわっており、きわめて重要である。人間とは何かを認識の問題から解き明かすカギがそこにあると思うのだ。
というように、批判的なことを書いてしまったが、この本はいい本だ。東浩紀に対しても、けっして悪く思っているわけではありません。
★★★★★ 東浩紀のメタ的な思考がわかる。
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NAME:蝉丸
PROFILE:自宅警備員
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