書評 『日常人類学宣言!』 松田素二
日常人類学宣言!
序章 日常人類学の世界へ
第I部 文化・日常・共同体
第1章 文化/人類学―文化解体を超えて
第2章 変異する共同体
第3章 人種的共同性の再構築のために
第4章 グローバル化時代における共同体の再想像に向けて
第II部 生活・環境・知識
第5章 必然から便宜へ
第6章 支配の技法としての森林保護
第7章 土地の正しい所有者は誰か
III部 個人・身体・実践
第8章 セルフの人類学に向けて
第9章 複数化する間身体
第10章 フィールドワークの窮状を超えて
本書は、文化人類学の重要な問題について10章に渡って、それぞれ深く議論を展開するものである。
その議論は著者のフィールド体験と運動指向にもとづくもので、理論のための理論といったものではなく、オリジナリティのある思考、地に足のついた議論が粘り強く展開されている。
それぞれの内容はけっこうむずかしい。全体を通底しているのは、社会構築主義が想定しているような非実体論、あるいはポストモダニズム的な議論、さらに「文化を書く」という問題などにより、現在、人類学においてリアルな議論が困難になっているという人文科学全体の問題にかかわる問題系である。
それは、たとえば、本質主義と構築主義、さらに反本質主義、反・反本質主義といった議論。これだけでも、答えがないようなむずかしい議論である。そうした答えがないような問いを次々に考察していく展開になっている。
そのなかで、著者のオリジナリティが強く出ているのが、「生活知」という概念である。それは生活の便宜にもとづいて、生活世界のイディオムを操る力であるとされる。たしかに、この議論は興味深いのだが、そのまま理論が尻すぼみになっているような印象を受けた。もっと「生活知」について、理論的な発展をめざしてほしい。これは、無意識がからむもので、証明が困難で、議論がむずかしい分野なのであるが、がんばってほしいところだ。
ただし、私が見るところ、この「生活知」という概念は、じつところ人類学でいうところの「象徴的思考」と同じものだと思う。それは恣意的であり、生活の便宜というよりも、ときに排他的な形をとり弱者を差別するような行為に人を動かし、それは善悪などの価値判断ではなく、恣意的な神話的思考によって決定されるものではないか。したがって、それは結局のところ「構築されたもの」と同義になってしまうのだ。その先にある論理的な帰結は、結局、社会構築主義は正しいということになってしまい(困ったことであるが)、生活の便宜は吹っ飛んでしまう。
正直いって、もう1度読み返さないとよくわからないところも多いが、とりあえず、著者の粘り強い議論の連続に敬意を表したい。
★★★★★ 院生向け 借り物でない思考
最高裁判事の国民審査、「那須」「涌井」に×を。
最高裁判所判事の国民審査というのは有名無実化していて、いまだ機能したことがない。考えてみれば、私も、最高裁の裁判官の名前なんてまったく知らないし、だから、だれが反動的な判決を出しているのかもわからない。はっきりいって、何も知らない状態だ。
ただ、今度の選挙では、「那須」「涌井」に×をつけようというキャンペーンをおこなっている人がいる。新聞広告を出している人もいた。
なるほど、「那須」「涌井」というのは、一票の格差を合憲とした悪代官なんですね。
こいつらを再任させたら、一票の格差を認めたことになる。ならば、私も今度は×をつけることにしよう。
皆さんも、「一票の格差」に反対なら、「×」で意思表示してくださいね。
いつも飲んでいるもの。
三種の神器的に並べてみた。右から、マルサンの調整豆乳(かがみ)。
小岩井の無添加野菜ジュース(たま)。
ローソンの105円商品、ミックスフルーツ100(つるぎ)。
健康のために豆乳を飲んで、あと野菜ジュースを飲むようにしている。この小岩井のものはトマトの味た濃くておいしいよん。
暑い夏もそろそろ終わりですね。皆さん、お体にきをつけて。

100円ショップの山型食パン。
以前、パン焼き機を買おうかという記事を書いたことがあるが、いまだ買っておりません。
というわけで、いまも朝は食パンを食べている。
お気に入りは100円ショップで買う「モーニングハーモニー」という山型パンである。これが、安くてすこぶるおいしい。
このパン、ローソンのプライベートブランドのようだ。近所の100円ショップは、以前はショップ99だったのだが、いつの間にか、ローソン系に変わっていた。ショップ99とローソンはライバルのような気がするのだが、どうだろう。店のオーナーがフランチャイズを変更したのだろうか。よくわからないが、とにかくこのパンを食べている。
製造は山崎製パン。おいしいのでおススメ。

関連エントリー
ホームベーカリーの購入を検討中。
FAX用紙を買った。
オーケー新用賀店でFAX用紙を買った。ロール式で、いわゆる感熱記録紙である。メーカーはPLUS。
FAX用紙としては、この感熱紙ロールタイプが、もっともランニングコストが低い。普通紙ファックスとは比較にならないぐらいおトク。おすすめします。
オーケーなら2本セットで、税込488円。これは安い。
あと、前にも書いたけど、これからFAXを買おうという人、絶対に普通紙ファックスはやめて、ロール式のものがいいですよ。ランニングコストが全然違いますから。

勝間和代の主張に耳を傾けてくれ、新卒一括採用見直し。
評論家の勝間和代は、以前より、終身雇用や新卒一括採用といった日本的な雇用慣行の見直しを主張している。この主張はきわめて、現在の失業は非正規雇用の問題を考えるとき有効なものであり、私もそれには大賛成である。先日、勝間が参加している有識者会合でも、新卒一括採用の見直しが提言された。
新卒一括採用見直しを=若年雇用対策で有識者-政府会合
2009年8月3日政府は3日、新卒者などの就職支援策を検討する「若年雇用対策プロジェクトチーム」の第2回会合を内閣府で開いた。会合では、企業の新卒者一括採用慣行について、学識経験者から若者の就職の機会を狭めるとして、「通年」採用の導入を含めた見直しを求める意見が出された。
経済評論家の勝間和代氏は「新卒一括採用は、いったんレールを外れるとなかなか元に戻れない」と述べ、年に一度の機会を逃すと入社のチャンスを失う制度の改善を訴えた。これに対し、日本経団連の川本裕康常務理事は「完全に見直すと弊害も出てくる」と反論し、機会を失った新卒者に対する就職カウンセリングの充実などを求めた。
この提言に対して、経団連は反論しているようだが、奇妙な論理を振りかざしている。新卒の一括採用をやめることによって、採用の自由度が上がり、より優秀な人材をより低コストで獲得することが可能になる。なのに、反対するというのは理解しがたい。
新卒の一括採用という日本的慣行がはじまったのは、1950年代である。高度経済成長期には、中卒は「金の卵」といわれ、各社が取り合い、その結果、地方からの集団就職がおこなわれるようになった。そのころの慣行をいまだに引きずっているのが日本の会社である。何も新卒にこだわることもないだろう。処女崇拝のようなものかな。世界中で、新卒の一括採用、それも4月に一斉に入社するという慣行をおこなっているのは日本だけである。
この慣行によって、一度レールをはずれた者は、きわめて正規の雇用ルートに乗ることがむずかしくなっている。私のようなアウトサイダーはそれでも仕方がない。しかし、弁護士をめざして司法試験の勉強に励んできたような優秀な人でさえ、新卒時に就職しなかったという理由だけで、以降の就職はきわめて困難になる。なぜ、そんなペナルティを与えなければならないのか。
この雇用慣行が日本にさまざまな不幸をもたらしている。ぜひとも、大企業の経営者の皆様には、勝間さんをはじめとする有識者の提言に耳を傾け、真摯に改善していただきたい。
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AERA MOOK 勝間和代「まねる力」 勝間 和代 朝日新聞出版 2009-06-30 コメント:断らない力 コメント:よくも悪くも「フツー」の人、「フツー」の本 コメント:勝間氏の関心の広さがうかがわれる コメント:名著 コメント:「まねる力」は著者の専売特許なんぞではない! |
書評『女は何を欲望するか?』内田樹
『私家版・ユダヤ文化論』がめっぽう面白かったので、もうひとつ、内田の本を読んでみた。
これは、フェミニズム理論を批判した書である。ボーボワール、イリガライ、フェルマン、バトラーなどの理論を批判している。ズバズバと切りまくるという感じである。反フェミニズムの人には気持ちいいい切れ味であろう。
批判はいわゆる構築主義にかかわっているが、構築主義そのものを批判しているのではない。
フェミニズム言語論の批判である。とくに、「女として語る」「女として読む」「女として書く」といった理論を詳しく説明し、論駁している。それは、舌鋒鋭いものがある。
理論そのものの批判とは別に、メタ理論的な批判も同時におこなっている。新書版のためのあとがきによると
私が本書で論じているのはフェミニズムの理論的瑕疵についてである。もっと厳密に言うと、どうしてこのような理論的瑕疵が知的に卓越したフェミニストたちによってさえ組織的に看過されたのかという「フェミニスト・ブラインドネス」の問題である。・・・
結論から先に言ってしまおう。
それは人間の知性はその知的卓越性の絶頂において失調するからである。私たちの知性の不調は「絶好調」という様態において発現するのである。...
なぜかと言うと、知性はその「絶好調」の頂点において「私はなぜこれほど賢いのか?」という(答えてはならない)問いについ答えを出してしまうからである。
このメタ批判もまた興味深い。この理屈のつくり方に内田の独特の思考パターンがある。しかし、その興味深さはいいのだが、正しいのだろうか。私は、たんにフェミニズムに理論的に間違った部分があるというだけのことではないかと思う。したがって、理論の間違いを正せばいいのだ。
しかし、その間違いの根本問題はかなりわかりにくいところにあると思う。内田の理論批判が切れ味鋭くても、何かしら釈然としないのは、真の理論的問題点に肉薄していないからだと思う。
つまり、問題の所在を明らかにすること自体がきわめてむずかしい問題が隠れているのだ。それは、おそらく内田が検討していない構築主義そのもののなかにあるのではないかと思う。内田に、構築主義の批判を望みたい。
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女は何を欲望するか? (角川oneテーマ21) 内田 樹 角川書店 2008-03 コメント:フェミニズムの存在意義について コメント:女のことは女にまかせて コメント:内田樹の本は今までも何冊か読んだが,どれもわかりやすく読みやすかった。しかし,この本はまったく例外。 コメント:慈愛に満ちたフェミニズム追悼論集 コメント:骨を拾う仕事 |
書評 『私家版・ユダヤ文化論』 内田樹
評判のいい本である。たしかに読んでみるときわめて面白かった。内田樹というきわめて質の高い知性がみせる自由な論理の飛翔が心地よい本だ。
ユダヤ人というのは存在しない。それは、ヨーロッパ人が構築したものである。ユダヤ人とは誰のことなのか?
第1章の最後のほうで、内田はラカンを引用しながら、とても魅力的な構造主義的なひとつの答えを出す。
「ユダヤ人と非ユダヤ人」という対立は現実的な世界から導き出されたものではない。そうではなくて、「ユダヤ人と非ユダヤ人」という対立の方が「現実の世界の骨組みと軸と構造を与え、現実の世界を組織化し、人間にとって現実を存在させ」たのである。
この二項対立のスキームを構想したことによって、ヨーロッパはそれまで言うことのできなかった何かを言うことができるようになった。けれども、その「何か」は現実界に実体的に存在するものでもない。それはある「隠されたシニフィアン」を言い換えた別のシニフィアンに他ならない。けれども、「ユダヤ人」というシニフィアンを発見したことによって、ヨーロッパはヨーロッパとして組織化されたのである。[内田:55]
こういう、謎めいた魅力的な答えを出したあと、日ゆ同祖論や反ユダヤ主義について説明していく。この部分もまた、事実の提示として面白いのだが、それよりも著者の最後の結論である。
最後のところで内田は2つのことをいっている。ひとつはフロイトの理論を使って、「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していたから」ユダヤ人に特別の憎しみを向けたというのだ。[内田:212]
もうひとつは、ほんとうの結論なのだが、「始原の遅れ」の覚知こそ、ユダヤ的知性の起源にあるという。造物主が世界をつくったとき、ユダヤ人は遅れてやてきた。そのことが、ユダヤに独特の知性を形づくっているというのだ。
この結論も魅力的であるが、わかったようなわからないようなところがある。
はっきりいえば、それは、反ユダヤ主義には根拠があるといっているのであって、結局、ひとつの反ユダヤ主義に回収されてしまいそうな結論である。おそらく内田はその危険を感じているからゆえに、わけのわからない書き方でこの書を締めくくっているのではないか。
いずれにしても、内田の高い知性とその自由な飛翔を感じることができる面白い本だ。
★★★★★ 知性を感じた
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私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)
内田 樹 文藝春秋 2006-07 コメント:チマタのユダヤ人論は消えてなくなれ コメント:ユダヤ論にするどく切り込んだ名著です。 コメント:「ユダヤ」と「差別」 コメント:ユダヤ人より内田樹のことが気になってくる本。 コメント:鋭い分析でした |

PROFILE:自宅警備員







