フッサールが乗り越えようとした、欧米人の暗黙の前提。
『レヴィナス序説』コリン・デイヴィス(国文社、内田樹訳)という本を読んでいる。
レヴィナスはフッサールの現象学をフランスに紹介した人らしい。その現象学について、次のような記述がある。これが、よくわからん。というか、ほんとうだろうかと思う。
科学的知に確実な基礎づけをしようとしたフッサールの野心とはうらはらに、レヴィナスにとってのフッサールの最大の功績は、哲学を自然主義的なエピステモロジーの枷から解き放ったことである。フッサールの最大の功績はこれを現象という観念の見直しを通じて達成した。科学の客観性を主張する人々は、ある問われざる存在論にひそかに依拠している。その存在論によれば、知覚されている現象の流れの背後には、ある安定的な本質が潜んでいる。現象とは、その場合、私たちの知覚を欺く可能性のある表層として観念されており、その向こう側に突き抜ければ、確実な知が獲得可能である、ということになる。フッサールはこの本質と現象の暗黙の乖離を否定した。現象学は、「本質から乖離したもの」としての現象の研究ではなく、「本質の現前のアクセス可能なモード」としての現象の研究なのである。現象学は、こうして自然主義的エピステモロジーを乗り越えて、二つの新たな探求領域を作り出した。すなわち、存在は永遠不変の本質の偽装的な記号としてではなく、その多様性において研究されるべきものであること。現象学者は今後、事物の存在の「意味」を探求することになるわけだが、それは、神学的なものでなく、意識的能作によって世界に贈られるものとしての「意味」だということ、これである。
(2000『レヴィナス序説』コリン・デイヴィス 内田樹訳 pp26-27 国文社)
赤字部分はほんとうなのだろうか?日本人はそんな前提はもっていない。目の前にある現実はすべて真実だと思っている。したがって、その暗黙の前提を乗り越えたとされるフッサールについても、どうも当たり前のことをいっているように思えてしまう。
しかし、これの暗黙の前提とされることは正しいのだろうか。どうもよくわからん。そのわからなさは、日本人が共有するわからなさだと思う。
つまり、この前提とされることは、日本人の感じていることと欧米人の感じていることが大きくちがっている点である。逆にいえば、現象学をありがたがる日本人は、ちょっとおかしい。自分のなかにはない前提を、あるものとして仮定し、その仮定されたものの矛盾を乗り越えようとしているわけだが、それはあたかも、マッチポンプのようなものじゃないかと思うのだ。
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レヴィナス序説 コリン デイヴィス 国文社 2000-09 平均評価点4.0 コメント:レヴィナスの思想を単純明快に整理 ※訳者あとがきで内田さんも書いているが、この本はとてもわかりやすい。とはいっても、内容はむずかしいのだが、文章はきわめて明晰である。 |
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