『権力と抵抗』佐藤嘉幸 書評
この本を読むのに2週間かかった。はっきりいって私の知識レベルではむずかしく、わからないことが多かった。
著者はフランス現代思想をかなり読み込んでいて、副題にあるフーコー、ドゥルーズ、デリダ、アルチュセールをおそらくフランス語で読んでいるのだろう。その知識量はすごい。しかし、この本については読んでみてかなりの疑問が生じた。
まず、著者は、アルチュセールをラカンから切断し、アルチュセールの権力論を修正することで、権力についての新たな理論を構築しようと試みている。この点にもっとも力が入れられている。しかし、この点に疑問がある。
ラカンのいう「欠如のシニフィアン」について、私が思うに、著者は的確な理解をしていない。この点については、アルチュセールよりも、おそらくデリダよりも、ラカンのほうが正しい。
さらにいえば、アルチュセールの理論は、きわめて間違いが多く、評価できるものではないと考える。そのアルチュセールの権力論を修正して、何か新しいものを導き出そうという戦術を立てること自体、センスが悪いとしかいいようがない。間違いだらけのアルチュセールをこねくり回しても、何も出てこないないだろう。そもそも、Aの理論とBの理論をくっつけたり、引いたりして、新たな理論をつくるという戦略自体、成り立たないだろう。先行思想を批判するにしても、それらとは全然ちがうところから、新たな理論は生まれるものだ。
フーコーはカントに依拠して、主体を超越論的主体と経験論的主体、その二重体として定義した。その到達点は多くの人が認めるポスト構造主義のひとつの重要な到達点である。しかし、その地点において、権力に対する抵抗の余地がなくなり、そこに権力と抵抗についてのアポリアが生じた。
フーコーから先に進まなければならないことは確かである。しかし、そこでアルチュセールを使うべきではない。
正直いって、アルチュセールのものを読んだことはないのでどこが間違っているのかを具体的に示すことができなくて申し訳ないのだが、それは原典を読まずして、この『権力と抵抗』を読むだけでも、見通すことはできると思う(はっきりいってアルチュセールは無茶苦茶)。
では、どうすれば新たな権力論ができるのか。それはやはりフーコーが主体をカント的な二重体として定義したその地点を出発点にすべきだろう。もちろん、この著作ではそこからの道を切り開いているのだが、その道が間違っている。もう一度、その地点に立ち戻って、そこからさらに再検討すべきである。
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権力と抵抗―フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール 佐藤 嘉幸 人文書院 2008-08 平均評価点4.0 コメント:ポスト構造主義の問題構成を引き継ぐ コメント:抽象的な概念を振り回している コメント:抵抗はいかに生まれるか |
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